日泰上人と七里法華
日泰上人についてのいい伝えによると、その母堂がある時、一つの珠を手に持っていると、パーと光があたり一面に輝いたという夢を見て身ごもったといわれ生誕は永享4年(1432)で、幼少の時から法華経を読通し、経論の解釈もでき、慈悲深く、近在の人々も彼の教えに深く信仰するようになった。文明元年(1469)浜野の廃寺を再興し、本行寺を創建した。

その後四方を教化して品川の本光寺も相続し、本行寺と本光寺の両寺の住職をつとめていた。

ある時品川より船に乗って浜野に返る際に、たまたま戦乱の世に一旗あげんとの志を抱いていた酒井小太郎定隆主従3人と乗り合わせることになった。船が沖合にさしかかると暴風が起こり、船は今にも沈みそうになった。その時日泰上人は船縁により、数珠を手にして声高らかに祈り居るや、不思議に風は止み、船は無事に浜野に着くことが出来たのであった。定隆はいたく感激して日泰上人に帰依し、他日自分が一国一城の主となったならば、その領するところを全て法華宗に改宗させるということを約束して別れたという。

この酒井定隆がいかなる人物であるか必ずしも明らかでないが、一説には遠州の武士で、最初9代将軍足利義尚(よしひさ)に仕えていたが、所領の少ないことに満足せず、関東に下り古河公方足利成氏(しげうじ)に仕えたが、ここも満足せず、総州に渡って一旗あげようとした人物であったと伝えられている。

土気古城再興伝来記」をはじめ多くの著書が、酒井定隆は安房の里見氏を頼って上総で活躍し、ついに念願の土気城主に長享元年(1487)になることができたとしているが、房総里見氏についての最新の研究成果の一部である「南総の豪雄」(川名登著)によれば、安房の里見氏が安房国一国を平定するのが永正5年(1508)であり、領国内を強化し、戦国大名として割拠する体制が出来るのは、里見義尭の天文3年(1534)以降であるといわれていることを考えるならば、里見氏が定隆を上総に知行させ、越中守に任じさせたとする諸書の説は疑問とするところが多い。

さて土気城主となった酒井定隆の領内の寺院では、その後、だんだんに日蓮宗に改宗していったと伝えられている。

土気を中心に半径12~16Kmの区域はその後ほとんど日蓮宗以外の寺院がないことから、世にこれを上総七里法華と称している。
 

 
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