生実藩と森川氏の菩提寺重俊院
天正18年(1590)8月、千葉一族の原氏滅亡のあと、生実の地は徳川氏の旗本西郷家員が同年8月19日に5千石の知行地(ちぎょうち)※1として与えられた。西郷氏が生実のどこに居住していたかは明らかでないが、家員--->忠員--->康員--->正員と4代にわたって生実に住んでいた。元和(げんな)6年(1620)9月、安房国朝夷(あさいな)・長狭(ながさ)両郡に1万石の知行地を与えられて、安房国へ転封(てんぽう)※2していき、その後、寛永4年頃までは生実の支配者は不明である。

寛永4年以後に森川重俊が上総・下総・相模の3国のうちに1万石の知行地を与えられ、大名として生実に居住することになる。

森川重俊は父森川氏俊の3男に生まれた。父氏俊が徳川家康にひろわれ、姉川の戦い長篠の戦いに功名をたてて、2千石の旗本に出世したことから、重俊は14歳の時より2代将軍秀忠の小姓として奉公した。幕閣の重臣大久保忠隣(ただちか)の養女をめとって出世への道をつかみ、26歳の時には下野国のうちに3千石の知行地を与えられて、長兄氏信と同じ知行高を持つまでになっていった。

ところが当時本多氏と大久保氏の政争が展開し、慶長19年(1614)大久保忠隣が失脚すると、それと関連して領地を没収され、酒井家次のところに預けられてしまった。しかし彼は大阪夏の陣の戦いに酒井家次に属して出陣し、働いた。その後本多正純の失脚などもあり、かいあって寛永4年許されて、再び秀忠に仕えることとなったのであった。知行地も上記のごとく1万石を与えられて大名に出世したのである。

重俊は寛永5年10月より3年3ヶ月の間、老中として酒井忠勝らとともに幕政を担当した。寛永9年正月、秀忠の死去にあって殉死する。享年49歳であった。

重俊の霊は自らが開基した森川山重俊院出羽寺にまつられ、以後ここは森川氏の葬地となっていった。

重俊以後の森川氏は12代1万石のまま維新まで続いた。重俊以来、生実には原氏の生実城跡を利用して陣屋が置かれたらしい。今日、陣屋跡は住宅地と化し、わずかに陣屋跡のすぐ下にある森川氏の菩提寺重俊院のみが残り、重俊以下の歴代の藩主達の霊が静かに眠っている。

生実藩の領地を千葉市内のところに限って示せば、次の所であった。生実・南生実・浜野・村田・古市場・茂呂・落井・富岡・小金沢・大金沢・六通・野田・平山・辺田・小花輪・谷津・苅田子・有吉・椎名崎などであった。 
 森川山 重俊院(1999年撮影)
 
生実池(弁天池) (1999年撮影)
弁財天社があるため、昔は弁天池と呼ばれていたようであるが、現在はは生実池の呼称で統一されている。
 
弁財天社(1999年撮影)
 
※1 知行地(ちぎょうち)
近世、各藩の藩士に対し年貢の徴収権を認めた土地。別名は給地(きゅうち)。
※2 転封(てんぽう)
豊臣秀吉及び江戸幕府によって行われた大名の配置替えのこと。国替(くにがえ)、移封(いほう)とも言う。大名移動の際、家臣団は随伴するが、百姓は移動せず、兵農分離を促進させ、大名及び家臣団の在地性が払拭される要因の一つ。
 

 
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