大きな石釧が出土した七廻塚古墳
七廻(ななまわり)塚古墳は生浜東小学校(学校建設当時は生浜中学校)運動場のほぼ中央にあったため、運動場整備のために削り取られた。その工事に先立って発掘調査が行われたが、この調査の時までにすでに古墳の周囲はかなり削られており、頂には忠魂碑が建立されているなど変形が著しく、円墳か方墳か、墳丘の形態や規模を確認することができない状態であったが、一応、高さ9メートル、直径約60メートルの円墳と推定された。これは千葉市内最大の規模を持つものであった。七廻塚という名称には色々な説があるが、主なものは片足跳びで塚の周囲を七回廻ると中から機(はた)織りの音が聞こえてくるというものである。そこから、機織り姫にちなみ「姫塚」という名で呼ばれることもある。またこの伝説は、生実という地名が「麻績」(おみ)すなわち麻布の産地であったところから出た、という地名伝説につながりを持っている点でも注目される。

発掘調査の結果、墳頂部の、4箇所から粘土の塊を配置した埋葬部と、祭祀場跡と思われる部分が発見された。

埋葬部は、腐ってしまっていてよくわからないが、木製の棺を直接埋めた模様である。そのとき、棺の両端に粘土を置いたらしい。館内と思われる所からは、鉄製の直刀・剣・鉾・鎌・斧や、滑石製の琴柱(ことじ)型加工品(琴柱のような形をした枕の装飾品と思われるもの)五個一組で二組が出土した。

祭祀場跡の方からは、青銅製の鏡(変形神獣鏡)一面と滑石製の模造器具(滑石で刀子・剣・斧・鎌などの模型を作ったもので、祭祀用具と考えられる)石や釧(くしろ)(腕輪から変化した宝器と考えられるもの)、臼玉(うすだま)(丸くて平たい玉)多数が出土した。これらは、臼玉をつないだ紐で一連につなげられ、榊などの木に掛けて死者をまつる祭事を行なったあと、その場へ埋められたものと考えられている。この中の釧は直径16.2センチで、中央に直径6.5センチの穴がある。一面は平面で他面は中央に向かって隆起し、穴の縁で厚さ1.9センチになっている。模様は両面とも同じで、鋸歯(きょし)状文を主としてつけてある。

これはわが国の同種の出土品中、最大最美のものとされている。これらの出土品から見て、この七廻塚古墳は、五世紀に築造されたものと考えられ、市内では最古の古墳の一つである。いかに教育施設の整備のためとはいえ、このような重要な古墳がなくなってしまったことは、いかにも惜しまれることである。

大覚寺山古墳の頂から南を見ると、すぐそこにこんもりと木の生い茂った台地が迫っている。これが「小弓古城跡」の北の端である。
 

 
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