地名のあれこれ ~ 小弓・生実 ~
千葉寺の南、村田川下流低地に突き出した舌状台地縁辺に位置し、近世の南小弓村・北小弓村・生実郷の一帯に比定される。「本土寺過去帳」には「文明三辛卯九月小弓館ニテ 原越後入道道喜 打死」「小弓本隆寺 永正八辛未八月 常林坊日勢逆修」などとみえ、初め小弓と書かれていたと考えられる。「東路の津登」によると、連歌師宗長は永正6年(1509)10月中旬「原宮内少輔胤隆小弓の館のまへに浜の村の法華堂本行寺」に旅宿し、千葉妙見(現 千葉神社)祭礼での三〇〇疋の早馬や延年の猿楽を見物し、また「梓弓いそへに幾代霜の松、梓弓いそへの小まつ誰よにか万世かけて種をまきけん、此本歌に小弓といふ名をくはへて祝し侍る計也」と連歌を詠んでいる。小弓からの展望を宗長は「南は安房・上総の山たちめぐり、西北は海はるばると入て、鎌倉山横たはり、不二の白雪半天にさしおほひてみゆ」と記している。

この小弓の館は永正末以降足利義明の居城小弓城となり、義明は「小弓上様」「大弓様」(神道大系所収本「快元僧都記」天文6年12月条など)などとよばれたが、小弓公方の成立は永正14年とも同15年ともいう。天文7年(1538)10月の国府台合戦で義明が滅亡すると、小弓に代わって生実の表記も用いられるようになったとみられる。天正9年(1581)10月4日の北条家朱印状案写(古文書)には、下総より相州への運送のため小弓・下曾俄野(しもそがの)に係留してある船二艘の海上諸役を一切免除するとしており、小弓の字がみえるが、下総側の文書である元亀2年(1571)頃と推定される6月2日付千葉胤富書状写(神保文書)では敵が「生実近辺」に地形を見立て城普請の計画を報じている。なお年月日未詳の胤富書状写(豊前氏古文書抄)により「おゆみ」と読んでいたことが知られる。後世の「国府合戦記」「房総治乱記」などの軍記録では小弓・生実が錯綜しているが、「千葉盛衰記」には天正13年5月千葉邦胤の扈従桑田万五郎が寝間に忍び入り主君邦胤を刺して逃亡し、「上野の方へ心さし生実の郷ニ至、然も闇夜の事なれハ前後途方を失ふ所に」、今川家の浪人石川玄蕃の子息真橋太郎左衛門の家に頼み入り隠れたが、事情を知られて追出され、上総草刈村(現 市原市)で捕らえられたとの説話を載せている。近世には生実の例が多いが、江戸時代前半までは大弓とともに小弓の表記も用いられている。
 

 
 |  大きな石釧が出土した七廻塚古墳  |  Page Top  |  地名のあれこれ ~ 北生実村 ~  |
 
Copyright(C) 2017 Alpena Corporation All Rights Reserved.