地名のあれこれ ~ 北生実村※6
生実郷の南に位置する。西部は江戸湾に面し、房総往還が通る。南東の南生実村などとともに中世は小弓・生実としてみえ、近世前期には北大弓(元禄郷帳)・北小弓(元禄13年下総国各村級分)とも書かれる。中世には千葉氏の一族原家の居城生実城が築かれ、北二重堀(きたふたえぼり)・南二重堀・箕輪※7(みのわ)・旧邸(きゅうてい)・ネコヤ※8・本城(ほんじょう)・木戸※9下(きどした)など関連をうかがわせる地名がある。寛永4年(1627)生実藩領となり、陣屋が置かれるに伴い陣屋町として家並が整えられた。町並(まちなみ)・市道(いちみち)などの地名が残る。天正18年(1590)8月19日西郷家員が知行所を千葉郡生実五千石に改められ、元和6年(1620)安房国東条(とうじょう)(現 鴨川市)に移るまで同氏領であった(寛政重修諸家譜)。「家忠日記」天正20年10月14日条に「おゆみ西郷弾正所へ、為音信使をこし候、鷹師をき候」とみえ、松平家忠は同25日にも当地の西郷氏に使者を遣わしている。のち幕府領を経て(延宝7年「訴状」関谷家文書)、生実藩領となり、寛永5年の小弓領郷帳では北小弓之郷として田818石余・畑438石余。以後幕末まで同藩領で、旧高旧領取調帳では高1347石余。改革組合※10寄場村※11

元禄8年(1695)の年貢は1193俵余(「年貢割付状」宍倉家文書)。寛延3年(1750)から宝暦4年(1754)まで、天明6年(1786)から寛政2年(1790)まで定免であったが、寛政2年は早損で米129俵が用捨とされた(関谷家文書)。同12年の田74町3反余・畑67町2反余・屋鋪10町9反余・新田2町2反余・新畑屋敷8町2反余(「村明細帳控」同文書)。この新田畑屋敷は浜方に開いた生実新田(昭和30年から塩田町)と考えられる。明和9年(1772)当村など九村は旱魃のため大豆・小豆年貢の赦免を出願(宍倉家文書)、寛政3年には新田百姓30人が年貢減免を求めて領主の陣屋前に詰めたという(「御吟味役日記見出写」県立中央図書館蔵)。天保8年(1837)夫食拝借願のため小前一同が寄合を触れ出し、一名が入牢を申付けられている(関谷家文書)。同年村の安兵衛は窮民111軒に対し、大人※12400文・子供200文ずつを分け与えている(同文書)。元禄7年浜野村と浦境論、元禄期および文政6年(1823)頃八幡村(現 市原市)と浦出入、天保8年きさご漁をめぐる争論など浜方の様子もうかがえる。

生実藩陣屋の設置に伴い当村が城下町としての性格を帯びたとする説がある。まず家臣団の常駐で、元治2年(1865)の御家中名前覚帳(永野家文書)では家中92名のうち御国御家中10名とあり、ほか足軽・歩兵二十数名が当地に住していた。また領主森川氏の菩提寺や祈願所をはじめとする寺社が多く、しかもこれらは陣屋周辺の家並を取囲むように建っている。さらにこの家並は陣屋の南方に集中し(寛延4年頃「北生実村絵図」県立中央図書館蔵)、当村の家数の約七割を占めている。東西に延びる道の東から上宿(上町とも)・中宿(中町)・下宿(下町)と連なり、下宿と交差する地を横宿(横町とも)と称した。村絵図では生実城の五の丸跡に藩陣屋が記され、家並の景観と共に上宿以下の名がみえる。住民の職業は商業・手工業共に多様であった。寛政12年の村明細帳控では家数175、男394・女417、男馬50・女馬1。天保14年の家数180余、馬70余、同年の農間諸職人商内名前取調書上帳(関谷家文書)では家数199、うち102軒が農間余業を営み、下質屋10、元質屋・質屋4、古鉄3、薬種2、紙屑・古道具1、煮売・一膳飯4、郷宿2、髪結2、湯屋1、菓子類小売16、塩煎餅焼4、酒枡売3、酒造1、造醤油2、造酢1、雑穀5、豆腐屋4、薪炭売買4、蕎麦饂飩2、〆油2、漬物1、魚油かつぎ小売1、綿打7、木挽7、荒物6、屋根屋6、糀屋5、大工4、油〆職3、鋳物師3、足袋・下駄・建具屋・畳屋・桶屋・紺屋は各1となっている。同4年当地の大阪屋八郎右衛門は酒造株を買受け、翌年中村重次郎とともに運上金を納めている(県立中央図書館蔵文書)。

風呂口(ふろぐち)にある曹洞宗重俊院(ちょうしゅんいん)は生実藩主森川家代々の廟所で、二代藩主重政が幕府に建立を請い認められたという。初代藩主重俊は寛永9年徳川秀忠の死去に遇い享年49歳で殉死、同寺に埋葬された。寛政12年の村明細帳控によれば陣屋横の内に建立されており、20石1斗余の重俊院料があった。大覚寺脇の浄土宗松風山大覚寺は1町9反余の除地があり(同明細帳控)、当時大巌寺末で、のち村内の須賀(すか)に移転。この須賀に顕本法華宗宝珠山本満寺(ほんまんじ)があり、安永3年(1774)当時京都妙満寺(みょうまんじ)(現 京都市左京区)末(宍倉家文書)。文明5年(1473)日泰の創建と伝える(本行寺文書)。寛永12年日什門流の信仰を布教したとして野田(現 緑区)の十文字原(じゅうもんじはら)で処刑された日浄の歯と数珠がある。天明6年の本末用帳(宍倉家文書)によると末寺六ヶ寺・孫末寺四ヶ寺。万治3年(1660)当住の日清は常楽新派を信仰しているとして幕府の弾圧を受け、伊豆大島に流罪となった(徳川実紀)。正中山妙印寺も文明5年日泰の創建とされ(本行寺文書)、妙満寺末。明治期に本満寺に合併。跡地に草刈堰を見立てた代官高室金兵衛の顕彰碑がある。如法山万徳寺は法華宗(陣門流)で、安永3年当時越後国本成(ほんじょう)寺(現 新潟県三条市)末(宍倉家文書)。橋戸(はしど)にあったが火災のため昭和期に塩田町に移転した。建久8年(1197)勢国(せいこく)寺の地に原氏が勢国寺を創建したというが、寛政12年の村明細帳控にはみえない。応永2年(1395)柏崎に宗徳(しゅうとく)寺を原胤高が創建したが、天正3年印旛郡臼井(現 佐倉市)に移転したという。横宿に正平8年(1353)真言宗柏崎山威光(いこう)院が創建されたと伝え、のち柏崎の宗徳寺に移転。八幡宮(現 生実神社)別当寺で、寛政12年の村明細帳控に領主祈願所、陣屋横の内とある。明治5年(1872)重俊院に合併。旧邸脇の生実神社はもと御霊(ごりょう)大明神。ほかに寛政12年当時諏訪大明神社・頼政(よりまさ)大権現社・天満天神社・弁財天社があった。
 
※6
  • 現在の「中央区 生実町」
  • 現在の「中央区 塩田町」
  • 現在の「緑区 おゆみ野1丁目」の一部(旧「緑区 生実町」と旧「緑区 鎌取町」の一部)
  • 現在の「緑区 おゆみ野2丁目」の一部(旧「緑区 生実町」の一部)
  • 現在の「緑区 鎌取町」
※7 箕輪(みのわ)
  • 中世の豪族屋敷を中心とし、そのまわりに農民が住んで発達した集落。関東地方に多くみられる。
※8 ネコヤ
  • 根小屋(ねごや or ねこや)、根古屋とも記す。日本中世の集落形態の一つ。豪族の館を中心として山や丘陵の麓に発達した集落。戦時は山城に詰めるため、根小屋集落は平時の住居であった。呼称は地域によって異なり、薩摩では麓、肥後では拵(かこい)、中国・四国では土居(どい)、山下(さんげ)、関東では堀の内、堀籠(ほりごめ)、根小屋、箕輪(みのわ)、寄居(よりい)などと呼んだ。
※9 木戸 (きど)
  • 元々は城塞の出入口、後に街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門をいう。江戸時代には武家屋敷と町屋敷の境にあって番所を併設した門や、芝居など興行場の出入口をも木戸といった。木戸の通過に木戸銭をとり、これを木戸と略称することもあって、これを免除されたものを木戸御免といった。
※10 改革組合 → 文政の改革による組合村
  • 江戸後期、幕府が文政の改革で実施した村方の治安維持組織。江戸幕府は関東地方における治安取締りのため、文化2年(1805)関東取締出役(しゅつやく)を設置したが、さらに取締りを強化するために、文政10年(1827)に文政の改革を発令し、その中心に組合村の設定を置いた。この組合村は、関東一円に領主の異同に関係なく近隣3~5箇村からの小組合と、さらに10近い小組合を結集して大組合を編成し、これを改革組合村の一単位とした。この大・小組合村にそれぞれ組合村役人を名主のなかから任命し、警察的取締りのほか、農間余業や職人の手間賃などの統制を行った。
※11 寄場村 (よせばむら)
  • 文政の改革による組合村のうち、交通の要衝などで中心的な村を寄場村とした。これを大組合村の中核とした。
※12 鐚(びた)
  • 鐚銭(びたせん)のこと。表面の文字が摩滅したり、割れたりした悪銭。室町時代には、中国から入ってきた永楽銭に対して従来使用していた粗悪な銭を鐚銭と称した。
 

 
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